mixiから自分語りを転載するよキモいよ

メールで教えて頂いて読みました。 悲しいような、なんだか幸せなような、寂しいような文章でした。
以下は、これを読んでいて私がぶわーっと思い出した事や考えた事です。
私は小学生あたりの頃からずっと自分の外見に対してコンプレックスを抱えていて、友達や知り合いにからかわれるのはともかく、見ず知らずの人にすれ違いざまに笑われるとかいう事もわりと経験していて(統合失調症の患者にありがちなアレじゃないです…!)、そこに内面に対するコンプレックスもあいまって凝り固まった結果、コンプレックスを直視する事すら出来なくなって、直視出来ないという事は改善もされないという事で、悪循環+自己嫌悪の繰り返しが長い間続きました。
ファッションや、とにかく外見にまつわるものと向き合うのが怖くて、大学生になっても暫くは化粧もしていなかったし、スカートも穿けなかったし、服を選んだり買ったりする事は苦痛以外の何でもありませんでした。冗談抜きで、涙が出るくらい嫌で、自分を着飾る事を「苦痛・努力」でなく「嬉しい事・楽しみ」にしているような「女の子」になれない事が情けなくてしょうがなかった。
そんな状態なので、自分に自信なんてあるはずもなく、同性においてもそうだったんですけど、特に異性に対しては完璧に「私に好意を持たれても迷惑だろう」「私に触られたら気持ちが悪いだろう」という思考が完成しました。 たまに、男女問わず気軽に踏み込んだり体に触れたりする女の子を見かける度、「ああ、この人は"自分が受け入れられないかもしれない"・"自分に触れられる事は嫌な事なのかもしれない"っていう躊躇はないんだなあ」と、妬ましいような腹立たしいような悲しいような気持ちになっていました。
それで、数年前、何の間違いか私を好きだと言ってくれる男の人が現れた時(これで私の人生の運全て使ったと思って良いんじゃないかと思っています)、何が1番嬉しかったって、「この人は私に触れたいと思ってくれる」・「私はこの人に躊躇無く触れてもいいんだ」っていう事だったんですよね。その事を信じるのに半年くらいかかりましたけど。
手を繋いでくれるのも嬉しかったし、隣に行けば触れてきてくれるのも嬉しかったし、私が触れて笑ってくれるのも嬉しかった。その人とは別れてしまいましたが、今になっても、これは私にとって「当たり前の事」ではなくて、「ものすごく嬉しい事」です。
なんだかわからないけど、上に挙げたブログの人が、裸の自分を受け入れてくれた風俗嬢に対してすごく幸せな気持ちになったって言ってるのと似たような事だと思うんですけど、自分の体を受け入れて(肯定して)触れてもらえるって、何ていうか、自分が今まで大嫌いでたまらなくてでも切り離せなくて絶望してたものを「大丈夫だよ」って言ってもらえるのと同じ事なんですよね。少なくとも私にとっては、自分の全てを丸ごと全肯定されたくらいの威力がありました。
そのおかげで、じわじわ自分のコンプレックスと目を合わせる事も出来るようになってきて、今でもファッション誌やコスメや美容院は苦手ですけど、何とか女の形を保つ事は出来てきました。この「肯定」を10代の頃に経験してる女はそら強いわーとつくづく思います。
「触れてもらえる」ってだから、別にそれが体のどこでも、私にとってすごく嬉しい事で、「大丈夫」って言葉よりもっとずっと強い「大丈夫」なんですよね。 そういう人ってわりと居るんじゃないかなあと勝手に思ってるんですけど。 別にセックスしなくても、自分の辛い過去について延々語り合わなくても、ただ触れてもらうだけで満たされる部分は、私の中でかなり大きいです。
セックスしてる最中に幸せすぎて感極まって泣く事はそう無くても(快感で泣くタイプの人は認めません!)、背中撫でられながら一緒に寝てて嬉しいんだか悲しいんだかなんかよくわかんなくなって超眠くなったり涙がじわっと出てきたりはあるじゃないですか。じゃないですかって完璧に私だけの意見ですけど。 だから、性的な事は一切無くても、ただ体を触れ合わせるだけの風俗で満たされる事ってどんな人でも確実にあると思うんですよね。 むしろ無い方が満たされ度合いは大きいんじゃないかとすら思います。
なので何が言いたいかというと「ただ頭を撫でるだけの風俗」欲しい。 金で買いたい。3000円くらいで。京都〜大阪でお願いします。当方、カサカサです。