桐野夏生

グロテスク

実際にあった「東電OL殺人事件」を元に書かれた小説。
恐ろしいまでの美貌をした妹(ユリコ)にコンプレックスを持ち、彼女を憎み続ける姉(主人公)・ユリコ・主人公の同級生和恵(東電OLがモデル)・ユリコと和恵殺害の容疑者として逮捕されたチャン、この4人の独白と手記で構成。
主な語り手は主人公で、ユリエがどれだけ美しかったか、どのように馬鹿で愚かだったか、それに自分がどれだけ振り回されたか、そしてそんな状況を生き抜くために自分はどれだけ聡明であったか、を幼少から高校に至るまでの人生と共に語っているのですが、その後、ユリコや和恵の手記、更にもう1人の同級生の登場によって、その主人公の証言は自分に都合の良いように歪められていたものだと気付かされます。そのユリコや和恵、またチャンにしても「自分にとっての事実」や「自己防衛のために作り上げた事実」を語っているので、結局どれが本当でどれが嘘だったのかは憶測の域を出ないままです。
4人の人間の濃く、暗く淀んだ感情や思想がぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、どこにも息を吐く場が無い。でも、主人公やユリコ・和恵の中にあるものは程度の差こそあれ誰しも持っているもので、誰の心境に対しても同調してしまいそうになります。彼女達は鈍感すぎたのか、過敏すぎたのか。
誰かに認められるか求められるかという事でしか自己を確認出来ない人たちが、「求められる事」を求め続けて足場を失って行く様子が生々しく語られているのですが、それには「加齢」っていう要素も深く関係しているという事を思うと、自分の先には何があるんだろうなあと考えずにいられません。
「求められるか」の戦いの場から降りたフリをして自己を守ろうとした主人公に対して、終始自分の何たるかに自覚的であったユリコは本人の思ったとおり「男に殺された」わけですが、彼女の言う「男は嫌い、でもセックスは好き」という言葉の意味は、求められる事を欲するけれど、その先にあるものは求めていないというような事なのかなあ。単なる過程の1つが目的にすり替わってしまっているというか。ユリコの「セックスは好き」は「肉体的快感が好き」とは違いそうだし。この感覚って男性にもあるんでしょうか。「仕事で・人間関係で」とかじゃなく、「自分が自分であること」によって求められるというか、「男」を求められる事を欲する、というような。
読後感は不思議とそんなに悪くなかったです。